鏡はよく、シナリオをプリントアウトする。スクリプトそのものやスクリプト的な指示が予め記述されたエロゲーのシナリオを、プリントアウトする。
　エロゲーのシナリオというのは、兎角長い。軽いエッセイや駄文のように、モニター１画面で把握できる量ではない。目眩するようなスクロールをして、やっとエンディングに辿り着くような量である。１キャラ分のシナリオでも、最低文庫１冊分はあるのだ。下手をすると２冊分ってこともある。複数のライターでキャラを分担して書かずに単独で１ゲームまるまるシナリオを書くと、小説数冊分になる。鏡は、基本的に１つのゲームのシナリオをすべて自分で書くので、２冊、３冊は当たり前ということになる。
　１キャラ分のシナリオを書いていくと、行数にして１万行を越えてしまうことも珍しくはない。ポルノ小説１冊だと、1頁16行で250頁だから、4000行。エロゲーの１万行というのは、実にその倍以上の量である。
　だから、モニター単独ではシナリオ全体を把握しきれない。把握できるのは、今書いている瞬間にモニターに映し出されている部分部分である。たかだか4､50行の範囲だ。１万行という全体はとても捉えきれない。
　でも、シナリオは細部だけを見ればいいわけではない。おおよそ物語には構成というのがあって、物語を書く時には構成を意識する──つまり、全体を把握していなければならない。
　だが、モニターではシナリオ全体を俯瞰するのが難しい。だから、プリントアウトする。１時間、２時間かかったりするけれども、プリントアウトしてそれを読み直すのも、仕事の１つである。読み直さずにシナリオを書いて提出すると、質が落ちているなと感じることが多い。だから、なおさらプリントアウトする。
　ただ、素人の人は、少し書いてプリントアウト、また少し書いてプリントアウトというのはやめた方がいいだろう。素人にとって大切なのは、何よりも完成させることだからである。プリントアウトするのは、全部書き終えてからの方がいい。
　プリントアウトしたものを読む時には、小説のように読んでしまってはいけない。小説は、それ単独で完成する。ゲームは、映像や音といっしょになって完結する。映像で出来ること、音で出来ることまで細かに書いているのは、書きすぎである。エロゲーと小説は別物である。たとえ「ノベル」と呼ばれるエロゲーであっても、小説とは根本的に異なるものである。それを忘れて書き込みしすぎてはいけない。
　エロゲーのシナリオは、シナリオ単独としては少しあっけない方、少し物足りない方がむしろ好ましい。小説のように描写が精緻になってしまってはいけない。もう少し粗雑な方がいい。エロゲーのシナリオは、映像と音を自分の頭で再生して（補って）読むのが理想である。鏡はそうしている。

　本当に好きで好きでしょうがなくてくっついたカップルをのぞいて、ほとんどのカップルの基層には、利害関係が横たわっている。
　男の本当の狙いは「最高の女」である。だが、最高の女はめったには現れない。だから、いくつか折り合いをつけることになる。
　女にも、理想の男はいる。でも、なかなか現れないから、たいていは折り合いをつけることになる。足し算と引き算をくり返しながらこの相手に食べられてもいいのか値踏みをする。一種の打算だ。
　好きで好きでしょうがなくて付き合いはじめた、という少数の幸福なカップルをのぞいて、多くのカップルは、始まりに打算がある。つまり、利害関係の上に始まっている。
　ただ、言葉を重ね、思いやりを見せているうちに、だんだんその「利害」や「打算」が埋もれて見えなくなっていくだけにすぎない。言葉や思いやりをもらううちに「この人いいな」「この子いいな」という感情が湧き起こり、やがてそれは「好き」という終着点に辿り着く。
　しかし、その「好き」という感情の底には、利害関係が横たわっているのだ。それは、脆さの証である。ほとんどの男女は決して強い絆で結ばれているわけではなく、恋愛関係というのは、根本的に非常に脆いものなのだ。別れても不思議ではないぐらいの強度しか元々ないのである。
　たとえば、比較のために男性同士の親友というのを考えてみよう。
　親友には、利害関係がない。あいつと付き合ってるとプレステのソフトを貸してもらえるからとか、あいつの家にいいものがあるからとか、そういう利害関係は存在しない。そいつのためなら、なぜか骨身を尽くしてしまう、利害を抜きにして助けてしまったり助けられたりする。そういう関係が、親友である。利害関係がある脆弱な結びつきは「友達」と呼ばれる。
　親友の関係は強固である。絆が深いために、そう壊れることはない。だが、好きで好きでしょうがなくてくっついたカップル以外の恋愛関係は、ほとんどが利害の上に成り立っている。
　親友関係は、距離が離れても壊れない。帰省すれば再会する。だが、友人関係は、学校が変わったり物理的な距離が離れたりすると、途端に疎遠になっていく。そして、恋愛関係も同じである。利害の上に成り立っているから、物理的な距離に左右される。
　恋愛関係は、決して強固なものではない。好きという感情、二人の思い出は美しいものだけれど、その基層には、ほとんどの場合、利害関係がある。利害関係がある以上は、結びつきや絆は弱いと言わざるをえない。
　鏡は悲観論者でもないし、恋愛関係はすべて汚いものだと言っているわけではない。ただ、基層に利害関係が横たわっていると指摘したいだけだ。多くの人は恋愛関係を神秘化しようとしているようだけれども──別の神秘性は存在するけれど──ほとんどの男女関係は根本的に脆く、簡単に破綻しうるものなのだ。

　鏡は、2002年頃から教室を借りてシナリオ公開講座を開いている。毎日ではなく、仕事の都合がつく合間合間なので、数カ月単位になったりする。
　元々の構想は、ソフトハウスを辞めた1999年にあった。サイトのScenario Academyは、自分のノウハウを少しでも伝えようと思って始めたものだ。エロゲーという世界において、まるっきりハウツーが存在しないことに、当時危機感を持っていた。そうしてサイト上で連載をつづけるうちに、実際に教えるということをしてもいいんじゃないか、という感じを持ちはじめた。ただ、やるにしてもいい加減にいきあたりばったりではまずいだろうという意識があって、結局実現には至らなかったのだ。
　それが３年後に実現したのは、たぶん、発作である。教室のレンタルも調べがついた。６回ぐらいまで何をするかのアイデアもあった。それで、えいやっ、と始めたのだ。
　シナリオ公開講座は、講義と演習とで成り立っている。鏡がマイク片手に講義する部分。受講生に実際に書いてもらう演習の部分。その２つで成り立っている。
時間は４時間。適当にやっているには長い。しかし、きっちりプログラムを組んでやるには短い。そこで自宅で講義原稿を書いて、マイクらしきものを片手に予行演習をすることになる。傍から見ればなかなかおバカな姿である。おバカだが、お金をもらう以上は損をさせたくないので、結局予行演習をすることになる。
　鏡一人の力によってエロゲーの低レベル化が食い止められるとか、エロゲー業界が変わるとか、そういう錯誤は鏡にはない。モダニズムが終了した今、そんなことは望むべくもないだろう。ただ、やらずにいるよりはやった方がましだ。エロゲー業界にハウツーが不足していることは間違いないし、実際に現場の声を聞く機会がないのも、また確かなのだから。

　中国の花見は、桜ではない。確か桃だったと思う。桃を見ながら花と酒を楽しむ習慣がなければ、関羽と張飛の「桃園の義」は生まれなかったかもしれない。
　日本の花見は、平安時代に始まったようだ。中国の輸入版だったらしい。だが、中国から輸入した木が枯れてしまって、代わりに桜が植えられた。以後の顛末は詳しくは知らない。
　桜は、日本文化に深く浸透している。日本文化そのものであるとまでは言わないけれど、桜は日本的である。けれども、日本全国の人がこれだけ桜を愛でるというのは、欧米の人には理解しづらいことらしい。
　桜は、日本の社会や文化と深く関わっている。そのことを欧米の人が理解するためには、桜が咲く４月の話あたりのをした方がいいだろう。
　３月までは、日本ではあまり緑は見られない。街の樹木も薄汚い茶色で、風も冷たく寒々しい。
　梅が咲く１～２月は、日本は寒さの中にまだ取り残されている。だが、春が来たな、という温度になると、やっと桜（ソメイヨシノ）が咲く。それがちょうど３月末から４月の初め頃だ。
　桜が咲くと、冬一色だった町は一変する。３月までは鈍い茶色の枝ばかりで殺風景だった街並みに、突如として鮮やかな、薄桃色の桜の花びらが現れるのだ。町の中が明るくなる。桜が咲いているところだけ、ぱあっと賑やかになって、明るくなる。そこだけ暖かな薫りが満ち溢れているようにさえ感じられる。
　変わるのは、木々だけではない。町行く人々の服装も、冬物から春物に変わる。重々しいものから、色鮮やかなものに切り替わる。寒々しい枝しかなかった他の樹木にも、緑の葉っぱが生い茂り始める。すべてが寒色系の冬から、明るい暖色系へいや鮮やかに切り替わるのだ。
　だから、桜は、春の到来を告げる象徴である。
　と同時に、桜は新しい社会的季節の始まりでもある。
　３月は、卒業式があって、日本人にとっては区切りの季節である。別れの季節でもある。その次に訪れる４月は、日本人にとってすべての始まりだ。
　幼稚園の入園式は４月。小学校・中学校・高校・大学の入学式も４月。会社の入社式も４月。
　４月は、無垢な新入生たちが大勢入ってくる季節である。また、新生活が始まる季節でもある。
　会社や大学に入ったことで、新しい土地で生活を始める。学生から会社に変わったことで環境が変わる。
　学校では、学年が変わる。当然、クラス替えも行われる。担任の先生も変わる。同じクラスの仲間も変わる。教科書も新しいものに変わる。
　寒かった３月も終わり、４月に入るとほぼ同時に気温も上がり、ほんわかあったかい感じになる。とっても柔らかな陽気が包み込むようになる。胸をくすぐるような陽気に、心はウキウキ、どこかふわふわしてうれしくなってくるのはこの頃だ。こんなふうな気分になるのは、春しかない。秋にはこうはならない。
　始まり。無垢。希望。期待。新生活。感傷。
　それらが、桜の中に詰まっている。
　桜が咲くというのは、単に花が咲くということではない。桜が咲いたということは、冬が終わったということ、春が到来したということ、新しい生活が始まるということ、希望が自然に満ちてくるということ、新しい出会いに期待と鑑賞を抱くということなのだ。
　薄桃色の五弁の花を眺めながら、日本人は、そういうのを感じているのである。はらりはらりとこぼれる淡く華やかな花びらの中を歩きながら、新生活の希望や期待、新入生の初々しさや無垢さを感じているのだ。

　人々が新生活に慣れ、初々しさも薄まってきた頃、桜は散っていく。代わりに鮮やかな緑の葉っぱが生えてくる。命の息吹が、どんどん強まっていく。
　蛇足だが、ずっと昔の日本は、グレゴリオ暦とは違う「旧暦」というのを使っていた。旧暦では、１月に春がやってくるようになっていた。だから、１年が始まる季節のことを「新春」と言い、新年を迎えたことを「迎春」と言うらしい。

　鏡が思うに、決して心性ありき、ではない。日本の場合、桜の開花と、様々な社会システムの更新が濃密に重なっているため、これだけ桜というものを愛でるようになったのだろう。

　なぜ、30になると野菜や魚の旬を話題にするようになるのだろう。なぜ、喫茶店にはまってゆくようになるのだろう。
　身体の老い、というわけではあるまい。
　老いが原因なら、ただ野菜や魚にはまればいいだけであって、旬を口にする必要はない。喫茶店にだってはまる理由もない。
　飽きてくるからなのかな、と鏡は思っている。
　何にか。
　味にである。
　30才ぐらいになると、フレンチやらイタリアンやら、だいたいいろんな味を覚えてしまって、味に飽きてしまうんじゃないか、と思うのだ。そうすると、味覚としては、水平的な差はなくなってしまう。
　なくなってしまうから、同じ魚でも、季節によってこれだけ違うとか、同じコーヒーでも豆によってこれだけ違うとか、垂直方向の差を求める方向へ流れてゆく。だから、料理の素材に対してだんだんこだわるようになったり、蘊蓄を覚えていくようになったりするんじゃなかろうか。
　そう鏡は考えている。
　ちなみに、垂直方向への差を求めていくことを、男性誌では「こだわり」と呼んでいる。
　「こだわり」はただの蘊蓄ではない。蘊蓄は水平的な知識だ。
　「こだわり」はスタイルである。つまり、人の生き方だ。
　30までは、「外見のかっこよさ」。
　30からは、「生き方のかっこよさ」。
　30になるまでは、外見のかっこよさだけで同世代の女の子の注目を浴びれる。でも、30をすぎるとそれだけではなくなってくる。生き方がクローズアップされてくるのだ。
　自分なりのこだわりを持っている人は、自分なりの世界を持っているみたいで、ステキに思えてしまう。
　でも、こだわりを持っていれば誰しも、というわけではない。
　男のこだわりが女性から見てステキに思えるか思えないかは、案外単純なところにある。それをその人が愉しんで悠々自適の雰囲気を持っているかどうかだ。
　女も３０に近づくと、だんだん自分が人生を愉しんでいないことに気がついてくる。そんな時に、自分なりのこだわりを持ち、人生を愉しんでいる人を見ると、はっとさせられるのだ。それがステキという感情に水平移動するのは、決して稀なことではない。
　こだわりは押しつけであってはならない。愉しんでいる感じもなく、ただひけらかすだけのものだと、女の人は、押しつけられたように感じてしまう。そういうのは、すてきではない。
　しかめっ面のこだわりはいらない。
　笑顔のこだわりが一番いい。

　物事を分析する鋭さには、２つある。
　１つめ。全体は見えないが、部分だけは的確に分析できる。
　２つめ。全体を総合的に分析できる。つまり、根幹を見抜いて全体を捉えることができる。
　普通に頭がいいというのは、前者を言う。本当に頭がいいのは後者である。

　美人やかわいい子というのは、意外に美しい声やかわいい声をしていないものだ。決してハスキーではないが、ドライな感じの声や、潤いはあっても意外と淡々としている感じの声をしているものである。また、いかにも細くてほにゃほにゃした感じの声も、かわいい子のパターンが多い（ＡＶ女優の椎名舞など）。
　美人やかわいい子の顎は、それほど音声を反響させるようには出来ていないので、潤いのあるしっとりとした美声やいかにもかわいらしい声にはならないのである。
　二重顎の方が、共鳴がよろしくなるのか、電話で聞いた声は聞きほれるほどの美声になる。また、顎の形状が変わっている子だとかわいい声になる可能性が高い。
　これですべて説明できるわけではないけれど、蓋然性は高い。

　２週間ほど前になる。凄く観念的な夢を見た。言葉やイメージに対して、観念的な操作を施す夢だった。
　自分は寝転がっているらしい。らしいというのは、そのあたりの記憶があやふやだからだ。
　夢のなかで寝転がっていると、言葉やイメージがふつふつと湧き起こってくる。
「あ、……だ」
　と思おうとする。だが、何々だと確定する前に、「それは表象だ」と悟ってしまって、何々だと言語化する前にそのイメージや言葉を消去してしまうのだ。
　言葉やイメージが流入してくる。しかし、それが何であるのか言語化する前に、「これは表象であって本当の姿ではない、真実の姿を表す最終形でもないのだ」とわかってしまう。わかってしまうから、認識する前にさっさと打ち消してしまう。打ち消してしまうから、それが何だったのかわからない。わからないから落ち着かない。苦しい。
　ひどく観念的な作業だ。認識が発生する前にそれを壊してしまうような作業である。
　認識寸前にイメージを打ち壊す作業をしている間にも、イメージは湧いてくる。生起した瞬間、流入してきた瞬間に、すぐさまそれを疑ってかかって、「表象、表象」と消していく。
　消していく間、頭のどこかで「表象が、表象が……」という声なき唸りが聞こえている。
　湧き起こったイメージに対して、何の疑問もなく無前提に確定できれば気楽なのだが、無前提に受け入れようとする自分を律するから苦しい。受け入れ寸前にそのイメージを「表象、表象」とかっこに入れて消去するわけだから、だんだん頭が痛くなってくる。その間も、「表象、表象」という声なき声がしている。
　頭が痛い、なんだ、この観念的な夢は……と思っているうちに目が覚めた。

　鏡が思うに、親離れするとは、ただ経済的に自立することではない。そうではなく、親を一人の人間として捉え直すことである。親を親として見ている限り、親離れはありえない。
　自分の親を、一人の人間としてではなく親として見るということは、自分と親とを「親－子」という関係性で捉えているということである。
　「親－子」の関係性で自分と親を捉える時、「親」の側にあるのは自分ではなく親である。「子」の側にあるのは自分である。つまり、自分は子供側の立場にいると前提しているわけだ。これは、果たして成熟した大人の態度だろうか？　親の前では「自分は子供側」と自分を位置づけてしまう態度は、果たして大人だろうか？　子供側として自分を位置づけるというのは、「ぼくは子供です」「まだまだ親の前では子供でいたい」と主張しているようなものである。
　「親－子」で捉えようとすると、「どうして親はわかってくれないんだ」「どうして親は、（当然のことを）してくれないんだ」なんて不満がたまってしまう。それは、親に甘えているからそうなるのだ。そういう態度は、親離れとは言い難い。
　どんなに経済的に自立したところで、自分と親とを「親－子」の関係性で捉える限り、親離れにはならない。親離れするためには、自分と親とを、「親－子」の関係性、保護－被保護の関係で捉えるのではなく、対等の人間性として捉えることが必要だ。
　親を親として見るのではない。親を一人の人間として再評価しなおすこと。一人の人間としての強さと弱さ、長所と短所をクールに見つめ直すこと。批判するのではなく、いいところも悪いところも含めて再評価すること。つまり、対等の人間性として見ること。その視点のなかに、子供としての甘えはない。
　親を一人の人間として捉え直すということ。決して批判しないこと。批判するのは、まだ自分の中に子供としての立場、自分を庇護してくれる親として相手を見ようとする精神が残っているから起きることである。
　人間として、親がどんなレベルなのか。人間として、親がどんな長所を持ち、どんな短所を持つのか。それを捉え直すこと。人間として総合的に捉えること。そうした視点を得て、初めて、自動的に自分に襲いかかる「子供としての甘え」から脱却し、一人の人間として、一人の人間である親を優しい視線で眺められるようになる。その境地に辿り着いて、初めて親離れしたと言えるようになるのだ。
　親に不満を洩らしている限り、親離れはありえないのである。

　男女のデートに金はつきもの。
　デートすると、金が飛ぶ。となれば、問題はどちらがどれだけ払うかだ。
　かっこをつけたいなら自分が奢ってしまえばいいが、奢られるのは当たり前と思っている女性もいる。
　以前、ある女友達が披露してくれた自説は、こうだった。

「女の子は色々お化粧やら準備やらで大変。お金が掛かる。だから、男が奢らなければいけない」

　男は、自分を飾りたてることについて女ほどにはお金を使わない。勿論、気も使わない。でも、女は将来会う男のためにお金を使っている。
　だから、男が奢るべし。
　そういう論法だが、どうもおかしい。男が女を奢ることがおかしいと言っているのではない。男が女を奢る「理由づけ」がおかしいと言っているのだ。
　妙なところは２点ある。

　まず１つめ。
　女友達の理屈なら、女が奢る必然性は必ずしもない。彼女が主張している理由は、男が奢る理由になると同時に、女が奢る理由にもなる。
　自分の知人で、彼女を口説くためにジムに通い、筋トレを始めた者がいる。お化粧する女の子のごとく、自ら男を磨きに行ったわけだ。女が男のために自分を磨いているから男が奢らなきゃいけないというのなら、女のために男が自分を磨いている場合は、女が奢って当たり前ってことになる。

　次、２つめ。
　必要経費の観点からすると、自己申告が間違っている。
　たとえば、女が年間１０万円を女を磨くために費やしたとしよう。だが、その１０万円は、ある男Ａ君のためだけに費やされたものなのだろうか。　もしそうでないとしたら、１０万円まるごとが彼のための必要経費にはならない。「家事消費分」と「必要経費分」とをごちゃ混ぜにして申告しているということになる。
　自分のために費やしてくれたお金に対して奢るのならわかるけれども、誰か知らない野郎のためにも費やされたお金に対しても「奢って」というのは、狡猾というより虫がよすぎる。

　男が女を奢るべきなのは、女が自分を磨いているからではない。にもかかわらず、無理に理屈で正当性を主張しようとするから、話がおかしくなる。その裏には、恐らく男を立てようとしなくなった女たちの現状が潜んでいるのだろう。
　鏡は、男が奢るのはおかしいと言っているわけではない。その理由を「女は男のために自分を磨いているから」というところに求めるのがおかしいと言っているのだ。
　無理に正当化を行わずとも、男女の経済的格差は残っている。月収２０万の男と月収５万の女がデートするなら、どちらがより金を出すかは決まっている。
　何も難しい議論を振り回す必要はない。
　「あなたのために女を磨いているから奢ってね」とかわいく言っちゃえばいいのだ。

　mixiが投げかけている事実。それは、公開の場で不特定多数の人に向かってものを言いたいと思っている人は少なくて、たいていの人は、限定された安心できる共同体の中で特定の人（あるいは特定できる人）に向かってものを言いたいだけだ、ということではないだろうか。
　インターネットを海に喩えるならば、「誰もが海へ乗り出してみたいと思っている。といっても行動半径は狹くて、せいぜい砂浜近くで水遊びをしていたいだけ。この広い大海原で大航海しようという人は、ごく少数にすぎないのだ」ということである。
　インターネット登場以前は、喩えれば大きな湖や小さな池が幾つかあるぐらいだった。インターネットは、その大小様々の湖沼を地球規模のひとつの大海に統一した。可能性はローカルからグローバルに広がった。
　けれども、個人個人のネットサーフィン領域は、ローカルなまま留まっていた。世界中の人々を結びつけるというのは、システムとしてはそうであっても、現実としては幻想だった。
　インターネットが用意したのは、一種の無差別級の社会だった。現実の世界では、知的レベルや収入レベル、人間レベルや社会階層があまりに違う人同士が接触することは少ない。だが、インターネットでは、本来なら出会わない階層の人たちが接触してしまう。サイトを家として喩えるなら、実生活では知り合いしか家に入れないようになっていても、インターネット上では素性のわからん人が無差別に自分の家に勝手に入ってくるようになってしまっている。悪意のある人間も、悪意のない人間も、関係なしに入ってきてしまう。その危険性が具体的な形となって表れたのが、99年以降社会問題化した出会い系絡みの殺人だろう。
　インターネットは、東京にいながら愛媛や北海道の古書店から古本を購入するという利便を与えてくれた。ネット通販は今や決して疎遠なものではない。世界がつながることによって得る情報的＆流通的恩恵は大きい。だが、インターネットには、素性も人間性もわからない人間と遭遇する危険性がある。
　mixiはその危険性を、紹介制という形式を取ることによって、完全ではないが回避しようとしている。さしずめ、素性の知れない出会いのバトルロワイヤルから、素性の知れている会員制倶楽部へというところか。
　mixiを理想化してものを言うつもりもないし、mixiの潜在的な危険性も感じてはいるけれど、mixi内での日記やコメントを見ていると、グローバルで全方向オープンな場でバトルロワイヤル的にコミュニケーションするより、ローカルで閉じられた場で知人や素性の知れた未知の人とコミュニケーションしたいと感じる人々の本音が聞こえてくるような気がする。

　なぜ、コミックやアニメの実写版というのは、気持ち悪いのだろう。居心地の悪い気色悪さを感じるのだろう。
　20年近く前、当時人気を誇った『タッチ』の実写版があった。当時鏡は高校生だったが、話を聞いた当初から嫌悪感を感じていた。案の定、ちらりと見た画像から飛び込んできたのは、グロテスクな間の悪さであった。
　二次元の絵が、個人としての名前を持ったアイドルに変換されるという気味悪さ。苦笑するしかない、絵的な間抜けさ。
　コミックやアニメが実写化されるたびに、この気持ち悪さは反復されていく。
　なぜなのだろう。なぜ、こんなに気持ち悪いのだろう。
　よく、実写とアニメは違うという。
　でも、どこが？
　　
　『アニメスタイル第２号』（美術出版社）で、押井守がこんなことを言っている。

「要するに、欲望そのままを形にした様な画だよね、アニメのキャラクターというのは。（中略）。生身の人間がやると、余分なものがいっぱい付いてくるわけじゃない？　でも、アニメのキャラクターっていうのは、見たい人間の欲望の権化、１００％欲望の結晶だから」

　現実の人間の顔、生きたアイドルの顔というのは、あまりに情報が多すぎるのだ。生身の人間の顔には、余分なものがいっぱいついている。だから、人が「こういうイメージの顔を見たい」と思っても、１００％そのイメージ通りにはならない。
　だが、アニメやコミックのキャラクターは、余分なものがない。線画で描かれているがゆえに、詰め込みたいイメージだけ詰め込んで、余分なものをすべて排除することができる。
　たとえば、凄く官能的で大人っぽい女性を見たいとする。
　そう願う者にとって、たとえば寺沢武一の描く女性は有力な候補になるだろう。ドンピシャ、という人もいるに違いない。
　だが、生身の女でその願いを叶えようとすると、なかなか「１００％ぴったり」というがいないのだ。
　マリリン・モンロー？
　いや、違う。
　ブリジット・バルドー？
　いや、違う。
　ソフィア・ローレン？
　オッパイはあれくらい大きい方がいい。でも、ちょっときつすぎる。
　違う、違う、違うの連続で、「すべて１００％自分のイメージする通り」とはいかない。どこかは重なっているが、どこかがずれているのだ。
　だが、アニメやコミックのキャラクターなら、好みの絵柄を探していけば、１００％満足できる結果が得られる。
　グロテスクと感じるのは、この変換不能なギャップがあるからだ。余計な情報を削ぎ落され、１つか２つのイメージを詰め込まれた線画のキャラクターを生身のアイドルに置き換えた途端、余計な情報が入り乱れ、人々が線画のキャラクターに見ていたイメージはかき消されてしまう。だから、ファンの子たちは怒り、そうでない子たちは失笑する。
　登場人物という言い方は、実写でもアニメでもコミックでも同じだが、その中身はまったく違っているのだ。イメージというレベルにおいて、実写とアニメ・コミックは、まったく別物なのである。
　だが、それを理解しない作り手が多すぎるように思える。
　人気があるからと便乗して実写化する能無しプロデューサー。アニメを実写化したいと言い出す素人映像作家。
　果たして彼らは正気なのか。
　正直、作り手として、プロデューサーしとてのセンスを疑う。元となるアニメやコミックを知らない人間にはよいかもしれないが、知っている人間には、実写化は商業主義の暴走でしかない。　
　映像に携わる者ならば、アニメ・コミックと実写との違いは理解して当たり前ではないかと思うのだが、そのあたりに無自覚な作り手は意外と多いようだ。それで「監督」とクレジットに入れるのは、あまりにも厚顔無恥すぎる──。

　なぜ男はコレクションをするのだろう。
　蒐集癖（しゅうしゅうへき）を持ち合わせない女たちは、無数のガラクタを前にしてため息をつく。

　こんなにビデオいるの？
　全部見たの？

　男は、見てないと答える。

　なんで買うの？
　見ないのならいらないじゃない。

　──見るかもしれないし。

　でも、見てないんでしょ？
　それに、このプラモデル、何？　全部組み立てたの？

　──いや。

　組み立てないんなら、買わなきゃいいじゃない。
　だいたい、置き場所どうするのよ。うち、狭いのよ。

　女には男の蒐集癖がわからない。
　男にだって、どうして蒐集してしまうのかがわからない。
　蒐集癖は、男と女を隔てる大きな違いだ。
　男は蒐集する。しかし、女は蒐集しない（勿論、全部の男性・女性に当てはまるわけではないけれど、たいていはそうだ）。
　なぜ、男は蒐集するのだろう。
　実は、鏡もずいぶんとコレクションをしていたことがある。
　ＬＤ全盛期の頃、給料のほとんどをつぎ込んでいた。おかげでたまったＬＤ８００枚以上。
　そのうち見たものは８割。
　５、６度くり返し見ているものもあるが、見ていないものは何年経っても見ていない。
　なのに、なぜ買い集めたのだろう。
　数年経っても見ないものがあるのに、なぜそれを買った時安心したのだろう。
　それは、コレクションという行為が、単純にものを手に入れることではないからだ。
　コレクションとは、アクセス権の獲得なのである。
　見たいと思った時に、絶版になっていて永遠に見られないというのは、イヤ。組み立てたいと思った時にもう入手不能になっていて永遠に組み立てられないのは、イヤ。
　自分が欲しいものが「永遠に手に入らない」というのが、コレクターにとっては一番イヤなことなのだ。
　だから、男は蒐集する。
　作りたいと思った時に、ちゃんとそのプラモデルがある。
　見たいと思った時に、自由に見られる。
　その、「いついかなる時でも、自分が欲するものにアクセスできる幸せ」──すなわち「アクセス権」を求めて、男は蒐集する。
　それがコレクションの心理である。

　でも、なぜ男は蒐集して女は蒐集しないのだろうか。
　答えは、いくつかある。

　まず１つめの理由。身体に対する男と女の差。
　女は、自分の身体を「（他人から）見られる身体」として意識する。
　だから、自分の身体を飾りたてることに意識が向く。
　衣服、化粧、装飾品──男が費やすはずのお金は、自分の身体を装飾するために費やされていく。
　対して、男は、自分の身体を「（他人から）見られる身体」としては意識していない。そして、他人の身体をフェティッシュに捉える。
　だから、自分がどんなものを持っているか、他人が手に入れづらいものを持っているかに意識が向かうのだろう。

　次に２つめの理由。女の子文化と男の子文化の差。
　女の子の文化は「かわいい」の文化である。「かわいい」とグループの女の子から言われて心の中でにんまりするのが女の子だ。
　対して男の文化は「強い」の文化である。ゲームに強い、スポーツに強い……、「強い」とグループの男の子から言われてにんまりしてしまうのが、男の子である。
　「かわいい」は、あまり蒐集を呼ばない。「かわいい」は自分を飾る方に向かうからである。
　対して「強い」は武装へとつながる。そして恐らく、武装することは蒐集することとつながっている。

　そして３つめの理由。メディアの差。
　女の子たちが接触している雑誌には、自分を飾るということを外れて蒐集することを促すものがない。きれいな服はいっぱい欲しいと思うだろうが、それは「飾る」ことが目的であって、「集める」ことが目的ではない。
　対して男の子が接触している雑誌には、単純に蒐集を促すものが多い。カード然り、ミニカー然り。　そしてそれを多く持っていることが、男の子の間ではひとつのステータスになる。

　コレクションという行為には、もちろん征服欲もある。けれども、本質的にはアクセス権の獲得と武装ではあるまいか。
　女は蒐集しない。男は蒐集する。
　その違いは、身体意識の差、女の子文化と男の子文化の差にあると言えそうだ。

　オレ的という言い方がある。
　
「オレ的にはオッケー」
「オレ的にはね、●●はダメ」

　なんて使い方をする。
　オレ的（おれてき）とは、「おれとしては」という意味である。変形として、「ボク的」「わたし的」という言い方もある。わし的というのは聞いたことがない。
　恐らく、流行が始まったのは1998年頃だろう。
　1997年発売の『若者ことば辞典』には、「～的」は載っていない。『現代用語の基礎知識1998年版』には、「～的」が紹介されている。
　『日本俗語大辞典』（東京堂出版）によれば、テレビ番組「恋のから騒ぎ」から流行したのだそうだ。
　旺文社・生涯学習検定センターが2002年７月、小中高生に対して行ったアンケートの結果では、「～的」を使うのは55％。今では６割の小中高生たちが「～的」を使っていると推測される。
　ただ、それが正しい日本語だと思っている子たちは少ないようで、６割以上が間違いと意識している。
　にもかかわらず、なぜ「オレ的」「わたし的」を使うのだろうか。
　みんなが使っているから……、だけではあるまい。
　ヒントは、恐らく「恋のから騒ぎ」にある。

　「恋のから騒ぎ」では、毎回、恋愛についてあるテーマが設定される。それに対して、20人近くの素人女性があけっぴろげな発言を披露、パーソナリティーの明石家さんまが突っ込むという形をとっている。
　女同士でブラウン管が絡めば、目立とうとするのは当たり前。でも、
表面的な争いは避けて円満に行こうとするのが、女の心理。
　和気藹々としながら目立ちたい。
　だが、たとえば別の人の意見に対して「わたしはだめ」というように「わたしは」という言い方をしてしまうと、凄く強い拒絶になってしまう。「は」には、排除するような響きがあるからだ。結果、「わたしは」という言い方をすることによって、和気藹々や円満を崩す恐れがある。
　けれども、「わたし的にはだめ」という言い方なら、強い拒絶にはならない。やわらかく自分の個性を主張できるし、相手も自分の個性を受け止めやすくなる。
　個性は出しつつ、でも、角は立てず。
　他を拒絶するイメージを与えず、ちゃっかり自分の意見を主張する。
　そのための言葉としては、「～的には」という言い方はぴったりなのだ。
　では、それがなぜ、今になって使われるようになったのか。なぜ「わたしは」「おれは」と言えないのか。
　少なくとも、1990年代までは、「おれは」「わたしは」を使って好き嫌いや個人的な感想を口にしていたはずである。それが、なぜ言えなくなってしまったのか。
　そこには、「おれは」と「オレ的には」の違いがある。

　第１の違いは、絶対性と相対性である。
　「おれは」という言い方は絶対性が強い。対して、「オレ的には」という言い方は相対性が強い。
　ご飯を食べた後に感想を聞かれて、「おれはまずかった」というのと
「オレ的にはまずかった」というのとは違う。
　たとえば、前者の場合の会話のつながりを考えてみよう。

　「おれはまずかった」
　「おまえ味覚おかしいんじゃねえの？」
　「だって、まずいだろ」

　他人が突っ込もうと、自分にはまずく感じられたというのは動かしがたい事実だ。その事実は絶対的なものである。「おれは」という言い方には、そういう部分がある。
　では、後者の場合はどうか。

　「オレ的にはまずかった」
　「あ、そう？　おれ的には結構うまかったけどな」
　「へーえ」

　「オレ的には」を用いた場合、いろんな「オレ的」があって、その中のひとつというイメージがある。つまり、「オレ的」は相対性が強いわけだ。
　絶対性と相対性──これが第１の違いである。
　　　
　第２の違いは、全体と部分である。
　「おれは」というと、おれという個全体、おれという人間全部になってしまう。
　だが、「オレ的には」ならば、そこで指されているのは「おれの感性」というおれの一部分であって、「おれ全体」ではない。あくまでも部分である。
　おれ全体をみんなに提示するのは、勇気がいる。全体を出せば、それだけトラブルの可能性が高くなるからだ。
　けれども、「おれの一部」なら、勇気はいらない。
　臆病な子でも、「オレ的」を使うことで自分の好き嫌いや価値判断を口にできる。
　「おれ」と「オレ的」には、絶対性／相対性、全体／部分という二重の違いがあるのだ。そして、この二重の違いには、ある心理的な側面が隠されている。
　「～的」という言い方ではないが、次の２つの言い方を比べてみてほしい。

　「おれ、寿司好きなんです」
　「おれ、寿司好きな人なんです」

　「おれ、寿司好きなんです」という言い方には、そう発言することで起こるトラブルから逃げようという態度はない。
　しかし、「おれ、寿司好きな人なんです」はどうか。
　おれ、寿司が好きな人なんです。そういう人なんです。そういう生き物なんです。だから、突っ込まないでね。
　自己表現するだけでなく、トラブルを回避しようとする戦略が見て取れる。そこに透けて見えるのは、臆病さ、個としての弱さだ。
　「オレ的」「わたし的」という言い方にも、同じものがある。
　全体ではなく部分を使うのは、他人に向かって自分を曝（さら）け出していくのが怖いからという心理があるのだろう。
　絶対性の強い言い方の代わりに相対性の強い言い方をするのも同じこと。
　「オレ的」「わたし的」を多用する子たちは、自分全体を他人に向かってぶつけることに対して、たぶん、臆病なのだ。
　やわらかく意見や感想を言う言葉としては、「オレ的」「わたし的」ほど便利なものはない。いちいち「個人的には」と断り書きしなくても、同じニュアンスを与えて、なおかつ、トラブルも回避できる。
　でも、それを多用する裏には、臆病さが潜んでいる。
　そしてそれは、核のない子供たち──己のなかに絶対的な基準（柱）がなく相対的なものしかない子供たち──が増えていることを、意味しているのだ。オレ的を多用する子たちは、それ以前の世代に比べると芯の抜けた子たちなのである。

　転職は、人を裸にする。
　自分にはこれだけあるだろうと思っていた価値を、根こそぎ削ぎ落す。
　勤続何年。
　こんな仕事もやったし、あんな仕事もやった。
　今の会社でこれだけ給料をもらっているから、いくらなんでもこれくらいはもらえるだろう。
　そう思って面接に行ってみると、思わぬ低い数値にびっくり。
　その後で、がっくりがやってくる。

　なぜなんだ？
　なぜこれぐらいしか払ってくれないんだ？
　くそ。
　誰もおれの価値をわかっちゃいねえ。
　
　わかっていないのは自分の方である。
　自分が評価されているのは、ほとんどの場合、その組織（会社）にいるからだ。市場全体から判断してというわけではない。
　「ある」と自分が思っている価値も、あくまで組織内で判断したもの。
　市場全体で判断したものではない。
　給料という、数字で示される自分の価値も、あくまでもその組織内（会社内）でのものだ。市場全体で見てそれだけ支払う価値があるというわけではないのだ。
　組織内での価値と、市場全体での価値は違う。
　もう少し言い換えれば、組織内での自分の評価と、市場全体での自分の評価は違う。
　組織内価値があるからといって、市場価値があるわけではないのだ。
　しかし、ずっとひとつの企業に属していると、そのことを勘違いしてしまう。組織内価値と市場価値は同じだと思い込んでしまう。
　鏡が自分の価値を思い知らされたのは、フリーランスになった時だった。
　ソフトハウスを辞めて作家宣言をしてみたものの、仕事の依頼が来るわけではない。マイナスになっていく通帳の記録を見ながら、その時初めて、自分に価値があると思っていたのは思い込みだったのだ、と気がついたのだった。

　ほとんどの人に、市場価値はない。
　あると思っているのは、組織内価値である。
　辞めたからといって、即、市場が自分を買い求めてくれるほど、自分に価値があるわけではない。
　転職のたびに経済的ステップアップをくり返していくのは、価値ある少数の人たちだけである。
　年功序列は崩れ、過去の遺物へと遠のきつつある。組織に属しているからといって安心できない時代に、我々は巻き込まれているのだ。
　だからこそ、自分に価値があるのだと思い込まないこと。
　組織内価値と市場価値を分けて考えること。
　自分のなかに市場価値を見出す──自分を市場全体に売りに出した時に、買い手が集うように自分の考え方を変えていくこと。
　それが求められているのだ。

　またやってしまった。
　川崎のローソンのトイレに入っていた時のこと。大きな用事を済ませてズボンを引き上げ、さて、手を洗うぞ……というところ。
　鏡の仕事は、ただ蛇口をひねって手をこすりあわせることだけだった。そうすれば、手は簡単に洗えていたのだ。別に説明を要することでも意思力を必要とすることでもない。
　だが、手を洗おうとしたその瞬間、鏡の両手は手順をぶっとばし、本人の意思を裏切って乾燥機の下に。

　ウイ～～～～ン……

　温風が手のひらに吹き出されて初めて気がついた。
　まだ手を洗っていないのに、なぜおれは乾燥機の下に手を持っていっているのだ!?

　４月最初の大ぼけであります。合掌。