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『存在論的、郵便的』~ジャック・デリダの郵便的スタイル~
存在論的、郵便的
存在論的、郵便的
 1983年、『構造と力』。
 1998年、『存在論的、郵便的』。
 そして、2006年。なぜ今更だが、敢えて今なのだ。

 『構造と力』を引っさげて浅田彰が思想界のスターとなってから15年後。新たなスターに思想界は沸いた。
 東浩紀である。
 『存在論的、郵便的』は、著者が東京大学在学時、わずか23歳から26歳の間に処女作として書かれたものである。翌年、『存在論的、郵便的』は、サントリー学芸賞を受賞した。
 この300頁あまりの書物は、難解で知られるジャック・デリダを扱っている。
 ジャック・デリダ。
 フランスの哲学者である。
 デリダって誰だ? とオジサンギャグをかましたくなる名前だが、デリダは、現代思想を語る上で欠かせない、思想界のトップスターだ。
 哲学思想の世界には、有名なキータームがある。そのキータームと人物とは結びついている。
 イデアといえば、プラトン。
 形相と質料といえば、アリストテレス。
 コギトといえば、デカルト。
 力への意志といえば、ニーチェ。
 存在論的差異といえば、ハイデガー。
 そして、脱構築(deconstruction)といえば、ジャック・デリダである。
 60年代までのデリダは、難解だが非常に論理的で学術的なテクストを書き記していた。ところが70年代に入ると、奇妙なテキストを捻り出すようになる。

《例えばすべての頁が左右二つの欄に区切られ、左でヘーゲルが、右でジュネが同時に扱われる三〇〇頁近い『弔鐘』、あるいは、ほぼ半分が断片的な疑似書簡で占められ、残りに収められたフロイト論もまた未完成なものに止まる五五〇頁強の『葉書』、そこではもはや、ほとんど読者の支持を期待できない実験的エクリチュールがただだ何百頁も展開されている》
《六〇年代の諸論文が(よかれあしかれ)維持していた明晰さは徹底して避けられ、七〇年代以降のデリダのテクストは別のテクストへの暗黙の参照や引用、論述の意図的中断や迂回によって極度に断片化され重層化される。そのため私たちはそこでは、ひとつの論文のなかにいかなる指示もなしに造語や新概念が登場し、かつその含意については他の論文やあれこれの哲学的テクストを参照しないと知りようもないといった事態に頻繁に出会うことになるだろう。そしてその環境のもとでは、デリダを読むことは暗号解読にかぎりなく近くなる》



 なぜデリダは、そのような奇妙なテクストを書いたのだろうか?
 それが、『存在論的、郵便的』=東浩紀の問いである。
 ジャック・デリダは、60年代に行っていた理論的な仕事をなぜ放棄して妙ちきりんな作業を展開するようになったのか。理論的な仕事を放棄したということは、何か限界を見抜いたのだろうか? だとすれば、その限界とは? その限界を突き破る出口はどんなものだったのか。さらにその出口から脱出して、デリダはどこへ向かっていったのか。
 その答えを探す旅が、『存在論的、郵便的』である。

 議論は、脱構築(ゲーデル的脱構築)の説明から始まる。
 例に挙げられているのは、「何の違いがある? What's the difference?」という疑問文である。
 これは、純粋な疑問文だろうか? それとも、修辞疑問文だろうか?
 純粋な疑問文だとすれば、違いについて尋ねていることになる。具体的にどういう違いがあるのか教えてほしいというわけだ。だが、修辞疑問文だとすれば、違いなんてないでしょ、と断言していることになる。
 そして、どちらの解釈をとればいいのかは、この文だけからは永遠に決められない。一種の二律背反(ダブル・バインド)である。
 このダブル・バインドの経験が、ゲーデル的脱構築だ。デリダの言葉で言うと、「不可能なものの経験」ということになる。
 さて、先程の疑問文「何の違いがある? What's the difference?」をA君とB君が引用したとしよう。
 二人は、どちらの意味で引用したのだろうか?
 文章は同じである。
 つまり、見た目(形)は同じだ。
 だが、片方は純粋な疑問文として引用しているかもしれない。片方は修辞疑問文として引用しているかもしれない。
 ということは、形は同じでも違うという可能性があるということだ。同じならばまったく同一である、つまり同一性があるということになるが、違う可能性があるということは、同一性が揺らぐということである。
 今は文章の例で示したが、これを日付に対して応用してみよう。
 1989年11月9日。
 ベルリンの壁が崩壊した日である。
 今年も、11月9日がやってくる。しかし、それは、今これを書いている現在では2006年11月9日であって、1989年11月9日ではない。
 「1989年11月9日」という日付は、永遠に来ない。一回限りである。「1989年11月9日」が2度も来ることはありえない。
 しかし、「11月9日」は何度も来る。
 来るけれども、その日が来たからといって、またベルリンの壁が崩壊するわけではない。「ベルリンの壁が崩壊した」という事象は永遠に来ない。「ベルリンの壁が崩壊した」残響、余韻が来るだけである。
 この「ベルリンの壁が崩壊した」という事象を、ある特定の人としてイメージしてみると、こういうことになる。その人が実際にやって来るわけではない。その人の余韻、その人の残響、言ってみれば、その人の幻が来るだけである。この幻を、デリダは「幽霊」という言葉で呼んでいる。
 幽霊は、すべてのエクリチュール(書かれたもの)に出現する。
 何かを書き記すたびに、複数の幽霊が誕生し、同一性が揺るがされる。こちらが伝えたいことが完全に伝われば、同一性が保持されるということになるが、伝えたいことは伝わらない。
 これを郵便の比喩で云うと、郵便物を届けようとしているのに、相手には届かずに終わってしまう、「郵便物が届かない」という事故がしょっちゅう起こっている状態になる。郵便ネットワークのいたるところで行方不明の郵便物が発生している状態だ。

《情報の伝達が必ず何らかの媒介を必要とする以上、すべてのコミュニケーションはつねに、自分が発信した情報が誤ったところに伝えられたり、その一部あるいは全部が届かなかったり、逆に自分が受け取っている情報が実は記された差出人とは別の人から発せられたものだったり、そのような事故の可能性に曝されている》



 デリダは、「その種の事故を最終的に制御可能だと見る思考法」を批判している。知の体系とは決して誤配も事故もない完全な郵便制度(郵便ネットワーク)だ――という見方があるとすれば、そこをまさに、デリダは批判するのである。
 言葉の郵便制度は完全ではない。
 コミュニケーションの郵便制度(郵便ネットワーク)は完全ではない。
 コミュニケーションをとれば、必ず行方不明の郵便物が発生する。あるエクリチュールを記した途端、そのエクリチュールは、Aという解釈もとれないし、Bという解釈にもとれないという、決定不能性に陥ってしまうからだ。
 だが、AにもBにも決定することが「できない」という事実が生まれた瞬間、皮肉にも絶対確実なことがひとつ生まれてしまう。それは、どちらかに決定するということは、絶対できないというひとつの事実だ。
 決定不能というひとつの絶対確実性。
 ゲーデル的脱構築によって、ひとつの決定不能性が生まれる。そして、その決定不能性から、「行方不明の郵便物」=「不可能なもの」がただひとつ、絶対的に存在しているということが導き出されてしまう。
 これは、ある意味、否定神学的である。
 否定神学というのは、元々キリスト教の用語から生まれた言葉だ。神様を言い表す時、「神の姿を思い描くことはできない」、「神の知性に到達することはできない」、「神の全能を知ることはできない」……のように、「~できない」という否定の言い方で表現する仕方である。これを否定神学的という。
 人は、神には否定神学的にしか近づけない。だが、否定神学的にであれ、神様に近づくことはできる。否定神学的に言い表されることによって、逆に神の輪郭が浮かび上がり、神に対してイメージを共有することができる。つまり、神についての郵便物は、誤配も事故もなく届いてしまうのだ。
 ゲーデル的脱構築によって導かれるひとつの決定不能性、別名、「不可能なもの」もまた、同じである。決定不能性が絶対的に成り立つというそのことによって、システムが補完されてしまう。郵便制度は不完全から完全なものに変貌してしまうのだ。
 こうして成り立つ体系を否定神学システムとすれば、その否定神学システムを存在論から追求したのが、ハイデガーであった。
 論理学の世界では、簡単にいえば、
 a=x
 のような数式を考えた場合、代入項に入れることができるものはすべて思考の対象になると考えられている。だが、代数ではない記号の部分、たとえば「+」や「=」は、思考の対象になれない。そして、存在とは、そうした演算記号のようなものだと論理学では考えられている。
 たとえば、aにゴリラを代入してみよう。
 ゴリラ=x
 この場合、「ゴリラとは何か?」と尋ねることかできる。けれども、aに「=」は代入できない。
 ==x
 という等式は成り立たない。つまり、「存在とは何か?」と尋ねることはできない。存在とは、「不可能なもの」である。それが論理学の存在に対する考え方だ。
 だが、ハイデガーは、「存在」=「不可能なもの」を思考の対象にすることができると考えた。
 ゴリラという存在者の代わりに、存在と存在者が折り重なったものを投入すればよい。つまり、「今存在している人間」(ダーザイン=現存在)を代入してみればよい。「今存在している人間とは何か?」と尋ねれば、自ずから「存在」=「不可能なもの」に触れることになる。
 そう考えたハイデガーは、この瞬間、論理学の無矛盾性を打ち破っていた。そして、それはゲーデルの不完全性定理と同じ構造の批判だったのだ。
 ハイデガーの存在論には、ゲーデルの不完全性定理が流れている。つまり、「ゲーデル的脱構築によって導かれる矛盾」=「不可能なもの」が流れている。そしてゲーデル的脱構築は、否定神学的である。
 デリダが当初考えた脱構築は、ハイデガーの云う解体を強烈に押し進めたものだった。だが、押し進めた結果、否定神学的なものを肯定するという逆説に辿り着いてしまった。ゲーデル的脱構築は、結果として否定神学的脱構築、存在論的脱構築となってしまったのだ。
 その過ちは、行方不明の郵便物を1つと考えてしまったことにある、とデリダは考えた。
 行方不明の郵便物は、1つではない。複数である。1つの郵便物――たとえば4枚の便箋に認められた手紙――が1枚ずつバラバラにされて、3枚目だけが届く場合もある。その場合、残り3枚はバラバラに分割されて複数の状態になったままま、郵便ネットワークの中で行方不明になっている。幽霊は、ゲーデル的脱構築によってだけではなく、郵便ネットワークによっても発生するのだ。郵便ネットワークの欠陥によって、何度も何度も幽霊は生まれて訪れる。
 デリダはそう考えて、ゲーデル的脱構築の否定神学性を、ハイデガー性を、乗り越えようとする。その、手がかりにしたのがフロイトだった。
 夢の世界は、論理性が失われている。より正確には、言語としての統一性、言語としての論理性が失われている。
 普段、意識がある時にコミュニケーションする場合は、言語は言語的統一性や言語的論理性に従ってアウトプットされている。論理学の言葉で云うなら、「a=x」という式がある場合、代入項にはしっかり代数となりうるものだけが代入されている状況である。
 だが、夢の世界はそうではない。
 人が見る夢の世界では、論理学の言葉を使えば、「+」や「=」も他の数字と同じように数字だと勘違いされて代入されるという状況が生じる。仮に、演算記号が動詞、代数が名詞として捉えるとすれば、すべての動詞が名詞として書き込まれてしまう世界が、夢の世界である。
 フロイトは更に別の場所で、意識から意識への情報伝達ではなく、無意識から無意識への情報伝達があることを言っている。
 デリダは、それを、ゲーデル的=否定神学的=存在論的脱構築を乗り越える切り口にしたのだ。
 フロイトが語る夢の世界のように、明確な言語的統一性は崩れ、無意識(郵便ネットワーク)から無意識(郵便ネットワーク)へのコミュニケーション。すなわち、ある著書から別の著書へのネットワーク的伝達。ある著書で現れた造語の定義が別の著書でなされているという、郵便ネットワーク的コミュニケーション。
 デリダが辿り着いた、ゲーデル的脱構築を乗り越える脱構築を、郵便的脱構築と言うならば、あの奇妙なテクストこそ、まさにその新たな脱構築、郵便的脱構築だった。フロイトが解読してみせた夢の世界の運動を、郵便的=フロイト的脱構築の運動を、行ったものが、あの奇妙なテキストなのだ。
 これが、著者が考えた「なぜデリダは奇妙なテクストを書いたのか」の答えである。東浩紀が『存在論的、郵便的』で展開している説明は、さらに細かく、奥が深い。メタレヴェルとオブジェクトレヴェル、フレーゲ/ラッセルの記述理論、フォネー、ラカンの現実界、超越論的シニフィアン、クラインの管といったことも触れられている。だが、それを使って説明してしまうと、あまりに多量の活字を消費すると同時にあまりに多数の人を理解から遠ざけてしまう。それゆえ思い切り乱暴な素描にしてある。これもまた、デリダが考えた誤配、分割され、一部が行方不明になった郵便物に違いない。
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