2ntブログ
乳之書
エロフィギュアよ、エロ漫画よ! 日本で一番パイズリを書いている巨乳作家・鏡裕之の官能文化論。
『巨乳ファンタジー2』、好評発売中!

↓パイズリで30頁連続!? 日本でNo.1の巨乳フェチ小説!↓
 
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
最新作です!

⇒悪の組織でサクセス! 乳魂の痛快出世巨乳フェチ小説、『揉ませてよオレの正義2』! 2013年5月17日発売! アマゾンで予約中!
揉ませてよオレの正義2
⇒原作者自らのノベライズ『巨乳ファンタジー2』発売! 2012年9月28日発売!

⇒なぜ、アニメや漫画は表現規制を受けるのか? なぜ、オタクや腐女子は叩かれるのか? そこには、性と資本主義の問題が横たわっている。婚活とオタクの問題はつながっているのだ。表現規制が全国的に強化されようとしている今こそ必要な、オタクのための知的防衛本。
非実在青少年論

非実在青少年論

価格:1,890円(税込、送料別)

⇒起承転結は役に立たない!? スランプにはどう対処するの? どうやってマーケットを理解するの?……などなど、技術的な面も精神的な面も細かくサポート。全24講義、400頁オーバー。「これ1冊あれば他の本はいらない」と読者に言わしめたゲームシナリオの決定版。同人ゲーム制作者は勿論、ラノベ作家志望者にもバイブルになります。

抜きゲーなのに面白い!? エロゲー批評空間で、抜きゲーにもかかわらず評価80点の高得点! 「これがエロゲーだ」とユーザーに言わしめた、2009年ベスト抜きゲー。
巨乳ファンタジー

才能という創造
 長山靖生の『おたくの本懐』を読んでいたら、面白いことが書いてあった。
 曰く、才能は「探すものではなく、創るものではないのか」と。
 普通、才能というと見つけるものというイメージが強い。見つけるとなると、自分の内面を見つめ、内省を突き進めて掘り当てるというイメージになるが、個人的な感触としては違う気がする。
 自分の場合を例にとってみても、己の内部を心理的に掘り下げて探し出したという感じはない。自分にはどんな才能があるのだろうかとか、そもそも自分には才能があるのだろうかと内省に内省を重ねている時の方が、才能は発現しなかった。
 自分が初めて才能に気がついたのは、『バーチャルめもりある』というゲームを作った時だ。12人の女の子との恋愛AVGのシナリオを一人で書いている時、出来上がったシナリオを自分で読み直して「自分が実はこんなことが得意だったのだ」ということを、はっきりと悟ったのだ。それが才能を自覚した瞬間だった。まるで自分の中に稻妻が降りたような感じだった。
 才能は、内省によっては発見されなかった。むしろ、創造によってその姿を現した。
 きっかけはある1つのゲームのシナリオだったかもしれない。だが、才能が形を成すには、育成の時間が必要だった。作家になりたいと思ってから12年以上にわたって書いて書いて書いてきたことによって、ある方向性へと成長し、才能が創出されたのだ。
 才能は、原石としてあったのではなかった。芽生えてもいない種子ですらなかった。作家になりたいと思うことによって初めて種子が芽生えた。それからの創造の連続によって、ようやく才能が創出され、1つのゲームをきっかけに発芽したのだ。
 もちろん、これは自分個別の場合だ。でも、もしかすると他人にも当てはまるかもしれない。
 長山靖生は同じ著書のなかでこう言っている。
《原石としての「才能」に固執しすぎると、自分以外のものが愛せなくなってしまう。今日のフリーター、ひきこもり、ニートといった人々は、程度の差こそあれ、いずれもこの袋小路に陥っているのではないだろうか》
 自分にどんな才能があるのだろうと考えすぎると、袋小路にはまってしまう。そうではなくて、どんな才能を創りだしていってやろうと考える方が、自分を解放してくれるのかもしれない。
最新作です!

⇒悪の組織でサクセス! 乳魂の痛快出世巨乳フェチ小説、『揉ませてよオレの正義2』! 2013年5月17日発売! アマゾンで予約中!
揉ませてよオレの正義2
⇒原作者自らのノベライズ『巨乳ファンタジー2』発売! 2012年9月28日発売!

⇒なぜ、アニメや漫画は表現規制を受けるのか? なぜ、オタクや腐女子は叩かれるのか? そこには、性と資本主義の問題が横たわっている。婚活とオタクの問題はつながっているのだ。表現規制が全国的に強化されようとしている今こそ必要な、オタクのための知的防衛本。
非実在青少年論

非実在青少年論

価格:1,890円(税込、送料別)

⇒起承転結は役に立たない!? スランプにはどう対処するの? どうやってマーケットを理解するの?……などなど、技術的な面も精神的な面も細かくサポート。全24講義、400頁オーバー。「これ1冊あれば他の本はいらない」と読者に言わしめたゲームシナリオの決定版。同人ゲーム制作者は勿論、ラノベ作家志望者にもバイブルになります。

抜きゲーなのに面白い!? エロゲー批評空間で、抜きゲーにもかかわらず評価80点の高得点! 「これがエロゲーだ」とユーザーに言わしめた、2009年ベスト抜きゲー。
巨乳ファンタジー


COMMENT

 管理者にだけ表示を許可する
今更かもしれませんが
dmo55 | URL | 2005-01-23-Sun 10:20 [EDIT]
小・中・高の頃は『自分の才能って何?』とずっと考えていました。
自分の出来る範囲でしか行動をせず、才能を追及する事は全くありませんでした。

社会人になってからは、仕事漬けの毎日。
自分の才能を確認する暇はありませんでした。
これを機会に、『新しい自分探し』をするのもいいかなぁと思いました。

| URL | 2005-01-23-Sun 13:40 [EDIT]
 自分の小中高を振り返って思うんだけど、あの時期に才能なんてないのよね。
 そんな嚢中の錐みたいに、黙っていても才能の先端がぶすっと突き刺して姿を現す、なんていうのはないのよね。よっぽど凄い人間じゃないと。
 ほとんどの人は、おれも含めて雑草なわけよ。
 あの頃自分の才能を考えてしまうのは、考えやすい人にとっては宿命であるけれど、もっと意味があることがあるのよね。それが才能を創りに行くことなんじゃないかと思う。

inosinic acid mark2 | URL | 2005-01-23-Sun 22:33 [EDIT]
才能ってのは他人との差異の中で知覚するものであると思います。自己反省のもとにたどり着くものでは少なくともないはずです。
同様に、才能は、僕からいわせれば与えられたものです。だから「創る」という述語もちょっと違うもののように僕は感じています。
人は人生の中で“与えられた”才能を“知覚する”ことしかできないと僕は思うのですが、いかがでしょうか?
これ、面白いのでブログに新記事として掲載します
| URL | 2005-01-24-Mon 08:44 [EDIT]
 inosinic acid mark2さんに酷なことを聞きますが、あなたは自分に才能を感じていますか?
 感じていないとすれば、机上の空論で蓋然性も説得力もありません。

 才能は、「発見の瞬間」で見るなら、「おれにはこんな才能があったんだ!」という知覚です。「あったんだ」というところにだけ注目するのなら、「存在」ということになるでしょう。
 しかし、自分に才能はあるのだろうかと考え出してから知覚するまでの10年近くの長い「プロセス」で見るのなら、才能は創出です。

 才能というのは自己反省でたどりつくものではありません。
 しかし、「他人との差異」のなかで知覚するものかどうかといえば、疑わしい。「他人より数学ができる」とか「他人より文章がうまい」というのは、おれの中では才能とは呼ばんのです。
 
 『バーチャルめもりある』のシナリオを書いていて、自分の才能に出会った時、他人と比べてどうのこうのという意識はありませんでした。むしろ、宗教的な悟りに近い心境でした。
 知覚するまでの自分は、自分に何ができるのかがわかっていなかった。恐らく、それを「才能がない」と表現していたのでしょう。
 けれども、1996年の2月のある日、3人めか4人めのシナリオを書いていて、「実はおれは恋愛ものが書けたんだ! 得意やったんや!」と気づいた、というか啓示が降りたのです。「自分に何ができるのかがわからない」という状態から「自分に何ができるかわかった状態」に変わったのです。
 恋愛ものが書ける人なんて、いっぱいいます。ましてや自分レベルなんてざらです。でも、そういう他人との比較という意識はなかった。つまり、他人との差異というのはなかった。才能の知覚に他人との差異は必要なかったのです。
 
 inosinic acid mark2さんは、まだ自分の才能を知覚できていないのでしょう。
 「与えられた才能」を知覚することしかできないのなら、おれは物書きになれていません。
 以前、高校2年の時に書いていた小説をファンの子に読ませたことがあります。
 どんな顔をしたと思います?
 あまりの下手糞ぶりに顔をしかめてましたよ。
 大学生時代、自分は10回投稿して全敗をくり返してましたが、あの時、果たして「与えられた才能」なんてあったのかどうか。

 育て上げるという表現を使うにせよ、創出という表現を使うにせよ、才能というのは培養しなくていいものではないんです。手をかけなくても、剥き出しのままごろっと転がっていて、それを発見すれば終わりというものでもないんです。
 才能というのは、自分から創出しようという行為がないと、なかなか出てこない。知覚できるレベルまで「培養する、あるいは育成する、あるいは創出する」ということをしないと、気づけない。種子レベルだとわかりません。
 また、才能の創出に成功して才能を知覚できたとしても、そこで才能が終わりというわけでもない。成長もします。ただ、どこまで成長するかはわからない。だから、自分は関係のない『資本論』なんかを読むんです──自分の才能をさらに成長させるために。

 自分は、自分の才能に対して10年以上悲観的でした。
 自分の才能がわからなくて、占いもやりました。70冊以上、占いの本を買いました。でも、自分に才能があるとは思えなかった。知覚もできなかった。大学2年生の頃、当時好きだった女の子に「おれは才能なんかあらへん」と言ったことがあります。大学4年の時、あまりに落選がつづくので、親友に「書いててもしゃあない。おれに才能なんかないんや」と言ったことがあります。あまりに悲観的だったので「だったら書くのやめろ」と言われました(おかげでまた発奮できた)。
 あの時、才能について論じていたら、恐らく「与えられた才能」という言い方をしていたでしょう。

 最後に。
 inosinic acid mark2さんのおかげで、面白い記事を書けそうです。ありがとう。 

TRACK BACK
TB*URL
Copyright © 2005 乳之書. all rights reserved.