テリー・イーグルトンと聞いて即わかる人は、ほとんどいまい。かつてはマルクス主義文学批評の先鋭だったと聞いても、ピンと来る人もいまい。鏡にとっては、挫折の人である。実は、馬鹿な思い出があるのだ。
　現役のエリート受験生だった頃の話だ。何を血迷ったか、文学部志望だったのに法学部志望に切り換えてしまった鏡は、来（きた）るべき論述試験に備えて政治学関係の本を買うことにした。それで選んだのが、『批評の政治学』であった。
　あまりにうぶであった。
　あまりに愚かであった。
　それは政治学の本ではなかったのだ。文学批評の本だったのだ。批評がタイトルに冠されているという時点でそう気づくべきだったのだが、あまりに鏡は青かった。それはもうガガーリンが初めて見た地球より青かった。ルイ・アルチュセールの名前も知らなかったし、文学批評の世界も知らなかった（論述試験に出されたのはカール・シュミットで、テリー・イーグルトンは勿論出題されなかった）。
　ほとんどの人は、この皮肉の利いた世界的な文化批評家の名前を知らない。文学を專攻していたって知らない学生も多いだろう。だが、『文学部唯野教授』の名前なら覚えている人もいよう。10年以上前に話題になり、売れまくったベストセラー。この種本と言われた『文学とは何か新版』を書いたのが、テリー・イーグルトンなのだ。
　
　さて、本書である。
　この一冊を読んで真っ先にわかることは、いかに「文化」の定義が、爆笑を誘うほどいい加減なものかということだ。

《文化人類学の定義によれば、文化はヘアスタイルや飲酒の習慣から、夫の二番目のいとこをどう呼ぶかにいたる、すべてを網羅することになる。いっぽうその美学的定義によれば、文化はイゴール・ストラヴィンスキーを含むが、サイエンス・フィクションは含まない》

《マーガレット・アーチャーの所見によれば、文化概念は「社会学における鍵概念のなかで、分析道具としてはもっとも貧弱な発達しかとげず、社会学理論においてはもっとも大きなゆらぎをもつ役割を果たしてきた」》

　文化の定義は、どこにレンズの倍率を合わせるかによって、無節操に姿を変える。まるで卑屈な変節漢のようだ。
　だが、テリー・イーグルトンは、その無節操ぶりを描き出して嘲笑したいわけではない。文化の定義をめぐる状況を、皮肉なタッチで描き出し、本来あるべき姿に揺り戻したいだけなのだ。だからこそ、たとえば高級文化（芸術文化）と低俗文化（大衆文化）の境界が混ざり合っていることも見逃すことができない。

《昨今、高級文化は、伝統的なブルジョワ芸術に限定することはできなくなり、もっと多様な市場反応型の分野をも含むようになった。「高級」といっても、非商業的なものだけを意味することはもうなくなったし、「大衆的」といっても、必ずしも非ラディカルなものだけを意味するわけではない。「高級」と「低俗」の境界は、なし崩しになっている》

　文化、文化と人は言う。何かにつけ、文化と口にする。少し知識を覚えると、文化を盾にして議論する。しかし、口にする本人すら、文化とは何かを理解していないことが多い。
　本書は少し真面目に文化を口にしたい人のための絶好の書である。少なくとも、文化の定義が分裂しており、階層によって様々なグループ群が散在する状態であることを知っているのと知らないのとでは、軽薄さに差が出るだろう。テリー・イーグルトンの本の中では比較的読みやすい一冊なので、少し背伸びをしたい人にお薦めしたい。
　なお、テリー・イーグルトンは、『表象のアイルランド』という分厚い本も書いている。さらに背伸びをして墜落したい人は、是非。
　

イーグルトンは私も好きです(^^)
「シェイクスピア　言語・貨幣・欲望」や
イーグルトン最大の大著「美のイデオロギー」
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4582333060/
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4314007281/
なども非常に面白い本ですね。
私もイーグルトンの文化・芸術・美学論
については書いたりしております。
http://d.hatena.ne.jp/kagami/20060821#p1
イギリス人ならではの明快さが
好感をもてます。ポエティックスを明快に
語れる力量にはまさに敬服するしかありません。

「文化は非常にしばしば、不快な必要性（性的欲求不満の解消）からの脱出手段、もしくはその昇華として、さらにはそのような必要性を神秘化し合法化する手段として用いられる。………まさにこの地点で政治的闘争が勃発する」（美のイデオロギー）

　高級文化と低俗文化の境界線の不明瞭化を目にして、おれはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの言う「軍事活動と警察活動の一体化」を思い出したよ。

　ところで、『文学とは何か』は読まれましたか？　批評をする者には必要な一冊なり。

読んだことがあります(笑)。唯野教授つながりだと直接はこっちを挙げる人も多いみたいですね。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4000042254/

　訳者が、自ら訳した本を解説するというやつですな。『アンチ・オイディプス』でも同じ本があったような気がしますが、タイトルか思い出せません。